午前一時十九分。 時計の音がやけに煩いと思い、ちらりと目をやるともうそんな時間だった。 ベッドに沈めていた体を起こす。 ずしん、と重たい体はまるで、空気を背負っているようだ。 引きずるようにベッドから下りて机の上の携帯を手にとると、チカチカと着信を知らせるランプが光っていることに気がつく。 淡いブルーに光るそのランプは私に予感させた。 ―――颯斗だ。 何の根拠もないが私は頭の中でそう呟く。 携帯を開き、メールボックスを開く。 そして、私の予感は当たる。 ディスプレイに表示された名前を見て、少しだけ溜息をつきつつも、笑みがこぼれた。 カチ、カチ、と携帯を操作してメールを開く。
「起きてますか?」
たったその一文だった。 こんな夜中に送ってくるのだから、何か内容のあることかと思っていたから、少し気が抜けてしまう。 いつもは時差を考えて送ってくる颯斗だ。 よくよく考えれば、こんな深夜にこんなメールを送ってくるなんて、すごく不自然に思えた。 なんて返そうか少し考える。 少しふざけた感じで返そうかとも思ったが、ここは無難に「起きてるよ」とだけ打ち込んだ。 メールを送信する。 時計の針は、午前一時二十七分をさしている。 携帯を持ったままベッドにまた寝転ぶ。 枕元に携帯を置き、しばらく返信がこないかと携帯を眺めてみた。 颯斗はメールを打つのがそんなに速くない。 ゆっくりと、打ち間違えのないように打つその速度が私は好きだ。 颯斗がメールを打つ姿を思い浮かべていると、携帯のランプがぴかぴかと光った。 携帯を素早く手にとる。メールを開く。
「電話かけてもいいですか?」
もちろん断る理由はない。 返事を打つのではなく、私は自分から颯斗に電話をかけた。


「どうしたの?」
≪驚きましたよ、電話≫
「だって返信してる時間がもったいないでしょ」
≪あなたらしいですね≫


颯斗の声を聞いたのはなんだか久しぶりだった。 メールのやりとりはしていたけれど、電話をしている時間はお互いあまりなかったからだ。 携帯から流れてくる颯斗の声は、私のよく知っているあたたかい声。 なんでもない会話をしているだけなのに、私は自然と笑顔になっていた。


「珍しいね、颯斗がこんな時間にメールくれるの」
≪すみません。ご迷惑かとも思ったのですが…≫
「そんなことないよ!すごくうれしい」


颯斗のやさしい声が耳に届くたび、こころがふわふわと浮いて、すごくあたたかい気持ちになる。 颯斗は春のような人だと、ぼんやり思った。 まるで颯斗の弾くピアノの音のような、そんなあたたかい音。 しばらく何気ない会話をしているうちに、私は颯斗の声の背後に聴こえる音に気がついた。 電車の音だろうか、明らかに颯斗がいるのは家の中ではない。 颯斗のいるオーストリアは今何時なのか少し考えたけれど、マイナス8時間の時差だ。 特に外にいてもおかしい時間ではない。


「今、外にいるの?」
≪よくわかりましたね。今ちょうど踏切を通り過ぎたところです≫
「じゃあ今のやっぱり電車の音だったんだ。家に帰る途中?」
≪まあ…そんなところでしょうか≫


歯切れの悪い返事だ。 言葉には出さなかったけれど、違和感を覚えた。 小さく笑った颯斗の声はいつもの颯斗だ。 けれど、今の返し方がやけに不自然なのは確かだ。 何か隠してる。 私の勘がそう感じとった。


「颯斗」
≪はい?≫
「今日はどうしたの?こんな時間に」
≪…さん、今、起きてるんですよね≫
「何言ってるの、今話してるでしょ」
≪明日、何か予定はありますか?≫
「ないよ。バイトも休みだから一日暇」
≪今、お時間ありますか?≫
「なかったから電話出れてないよ」
≪…少し電話を切りますね≫


私が言葉を返す前に電話が切られる。 今日の颯斗はなんだか変だ。 何もかもが突発的で、少し、不安そうというか、いつもよりも慎重になっている。 颯斗が不自然な理由を考えてみたけれど、私には思い当たる節がなかった。 もしかしたら重大な悩みを抱えているのだろうか。 いや、それにしてはなんだか、違う。 ぐるり、と私のこころは不安に囲まれてしまう。 もしかして。 もしかして、ほかに、好きな子ができちゃった、とかだったら、どうしよう。 オーストリアで知り合ったかわいくて、スタイルのいい、頭のいい女の子のことが好きになっちゃった、とかだったら、どうしよう。 どく、どく、どく。 そんなわけない、颯斗に限ってそんな。 一度湧き出た悪い想像は止まらない。 電話を切ったのは一度話を整理するためで、私をいかに言いくるめるかを考えていて、しかもその隣には新しく彼女になる女の子がいて。 そんな想像をぐるぐるしていると、ピンポン、とチャイムが鳴った。 びくん!と肩が震えた。 時計の針は午前二時三分をさしている。 こんな時間に誰だろう、大学の友達の顔が浮かんだ。 けれど浮かんだ子はみんな、こんな深夜に突然来るような子ではない。 それに年末ということもあり、実家に帰っている子が多い。 携帯をポケットにしまいながらベッドから降り、玄関に向かう。 様子をうかがうための覗き穴を覗くのも、なんだか少し怖かった。 恐る恐る外の様子をうかがうと、思わず声をあげそうになった。 勢いよく扉を開けると、そこにいた人はひどく驚いた顔をした。


「颯斗?!」
「すみません、こんな深夜に」


本当に申し訳なさそうに笑う颯斗がそこにはいた。 寒い中歩いてきたのだろう、少し頬が赤くなっている。 どうしてオーストリアにいる颯斗がここに? 新しく彼女になるかわいい女の子は? 夢?現実? いろいろと収拾がつかなくなっている私を見てか、颯斗は突然やさしく私を抱きしめた。


「すみません、サプライズのつもりだったんですが…思ったよりも驚かせてしまったみたいですね」


私の頭をなでる颯斗の手は、ひどくやさしい。 混乱していた頭がすうっと落ち着きを取り戻す。 それとほぼ同時に、私の目から涙が零れ落ちた。 うれしい、颯斗に会えて、抱きしめてもらえて、うれしい。 どうしても止まらない涙を、颯斗がやさしく拭ってくれた。


「今日はさんに、伝えたいことがあって、帰国したんです」
「…なに?」
「来月、日本でコンサートを開くことになったんです。来てくださいますか?」
「え、え、うそ、ほんとう?!行くよ!もちろん行く!いきたい!!」
「それからもう一つ」


颯斗はゆっくり私を離すと、鞄を開けた。 鞄から何かを取り出そうとしている颯斗を、私は首を傾げながら見つめる。 目的のものを見つけ出したらしい颯斗は、私に悪戯っぽく「少し、目を瞑っていただけますか?」と言った。 頷いて言われたとおり目を瞑る。


「僕はこれから、ピアニストとして生きていくつもりです」
「うん」
さんとずっと一緒に生きていくつもりです」
「…なんか、照れるなあ」
「だから、さん」


颯斗の手が私の右手をつかむ。 ゆっくりあげられた右手の手のひらに、何かが置かれた。 なんとなく、何かはわかっていたけれど、恥ずかしくてわからないふりをした。 「目、開けてもいいの?」と訊くと颯斗は、「はい、どうぞ」と微笑んだ声で言った。 ゆっくり目を開けると、やっぱり、手のひらには、思っていたものが置かれていた。


「僕と、結婚してください」


微笑みながらも、少し緊張した颯斗の顔。 手のひらに置かれたそれと、颯斗の顔を交互に見る。 どんな顔をしたらいいのか、よくわからなくなった。 けれど、とにかく、「しあわせだなあ」と、こころが叫んでいた。









わたしが生きるこれからと、きみと生きるこれからを。







(2012/01/01)あけましておめでとうございます。



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