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まったく、きみも無茶をするものだね。 はあ、と呆れたようでどこか楽しんでいる溜息が聴こえた。 ぼんやり目を開けると真っ暗な空と、あと一週間で教育実習期間を終えるらしい教師見習いの姿が見えた。 彼、水嶋郁と言葉を交わすのは意外なことに今日がはじめてだった。 彼が教育実習を行っているのは天文科だし、神話科の私と交流がないのは当たり前かもしれないが。 たとえ彼が神話科で教育実習を行っていたとしても、彼との交流は少なかったと私は思う。 「…こんばんは、女たらしの教育実習生さん」 「初対面の人にずいぶん失礼な挨拶だね、お転婆な仔猫ちゃん」 少し笑った彼の顔を、素直にきれいだと思った。 上半身を起こそうとすると、彼は自然な手つきで体を支えてくれた。 ふわりと揺れた彼の髪からは優しい香りがした。 彼は私の背中をきれいに払ってくれた。 「どうも」と呟くと「かわいくないお礼の仕方だね」と彼はまた笑った。 彼は眼鏡の奥に光る瞳で私を吟味するように眺める。 その視線が鬱陶しくて彼の手をすり抜けて自分で立ちあがると、彼は不意に空を見上げた。 「君はどうして木に登ったりなんかしてたのかな?」 「登りたかったから」 「シンプルな答えだね。嫌いじゃないよ」 陽が沈んで、星が輝きはじめた頃、気付けば私は木に登っていた。 どうして登ったのかは自分でも謎だが、とにかく私の中の何かが「登れ」と指令を出していたのだろう。 登った後、空を見上げた。 空を見上げてから、地上を見下ろした。 ずいぶん高いところまで登った記憶がある。 けれど、恐怖心は抱かなかった。 また空を見上げて、私は、たしか。 「何か、悲しいことでもあったのかな」 「…いいえ」 「人間が泣くときは、何か理由があるものだよ」 「そうでしょ?」と笑った彼の顔は、ひどく優しいものだ。 彼の人差し指が私の頬を優しく撫でる。 ぽろぽろと流れる私の涙は、彼の瞳にはきっと光って見えているだろう。 頬を伝う涙を服の袖で拭おうとするが、彼がそれを止める。 「頑張っている女の子は、いっぱい泣くべきだと思うよ」 月光に光る彼の瞳は、まるで、星のようだ。 「それでね!水嶋先生ってひどいんだよ!」 月子ちゃんの最近の悩みの種は専ら水嶋郁のことらしかった。 教育実習期間がもう終わるというのに、未だに愚痴が止まることはない。 今までは月子ちゃんの話を「そうなんだ、ひどいね、水嶋先生って」と肯定的に聞いていたが、今日はいつもと違っていた。 「意地悪なんだよ、本当に!」 「…そうかな、結構優しい人のように思えたけど」 「ちゃん、水嶋先生と話したの?」 「うん、今更ながら」 少し笑うと月子ちゃんはいきなり身を乗り出して「大丈夫だった?!何もされてない?!」と私の手を握った。 何のことだかよくわからないが、今まで聞いてきた月子ちゃんの話を総括すると、水嶋郁という人間は「すぐに女に手を出す」性質があるらしい。 そのことを心配しているのだろう。 私だって、あの夜の出来事があるまでは、そう思っていたのだけれど。 もともと、水嶋郁への印象は悪いものであった。 月子ちゃんからの話を聞く限り、女たらしで人の気持ちも考えず行動するようなひどい人間、という印象だった。 その証拠に私は月子ちゃんから「秘密の話」として、水嶋郁と賭けをしている話を聞いていた。 嘘の恋人になる、というものだ。 その賭けの結果がどうなったのかは聞いていないが、その話を聞いたとき「ひどい人だな」と思ったことを今でも鮮明に覚えている。 「別に、ひどい人ではなかったよ。優しかった…気がする」 「えー?!あの水嶋先生が?」 月子ちゃんは「ちゃん騙されてるよー!」と私の肩を少し揺らした。 騙されているも何も、水嶋郁は私の体を支え、涙を拭い、言葉をかけてくれた。 彼をどうやって、ひどい男だと言えようか。 月子ちゃんの訴えに私は、首をかしげるしかできなかった。 やさしいひと、だと思うんだけどなあ。 昼休み、窓の外に目をやると月子ちゃんと水嶋郁の姿が見えた。 どうやら月子ちゃんが水嶋郁にからかわれているようだ。 月子ちゃんをからかう水嶋郁の顔を見て、はっとした。 (ああ、そういうことか) 彼は、私に興味がなかったのだ。 中庭の、あの木の下で青く晴れた空を見上げていた。 星のない、ただただ青が広がる空はひどく、澄んで見えた。 一度視線を落としてから、私は木を登り始めた。 登って、登って、登った。 ずいぶん高いところまでつくと、空を見上げた。 こんなに高いところまで登ったのに、空は相変わらず遠い。 遠くて、遠くて、遠い。 雲一つ掴めやしない、自分がひどくちっぽけに思えた。 「また、おかしなことをしているね。泣き虫お転婆娘さん」 聴こえた声はひどく優しい棘を持っているように思えた。 視線をそちらに向けると、優しい優しい笑みを浮かべた彼がそこにいた。 聴こえた声が、向けられた笑みが、何もかもが優しく見えてしまうのは、そう。 「前みたいに落ちちゃうよ」 私が、彼に恋をしてしまったからなのだろう。 嘘に恋 |