かわだりょうご
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こちら)
「ねぇ」
耳元で囁く声。
「なに」
私は重くなったまぶたを開け、顔をそちらへと向ける。
「ここから月までどのくらいの距離があるか、知ってる?」
「三八万キロ」
これで何度目になるだろう。幾度も起こされた私は、今度こそ眠りにつこうと、再び眼を閉じる。
「ねぇ」
…またか。
「なんだよ」
「ここから月までどのくらいの時間で行けるか、知ってる?」
「新幹線なら五三日」
私は彼女の質問に答えてやり、眼を閉じた。
「ねぇ」
「…今度はなんだ」
「月って惑星?」
「地球の衛星。惑星じゃない。恒星の周囲を公転する星が惑星だろ。月は地球という惑星の周りを周ってる。だから衛星。これでいいだろ」
いい加減、眠い。イライラが募る。ごわごわとした椅子、肌に張り付く薄い毛布、冷風が顔に吹きつけ、照明が顔を照らし、耳を劈く轟音が延々と流され、となりで次から次へと無意味な質問をし続ける女。
「ねぇ」
私は初めて無視をした。眼を閉じたまま、微動だにしない。寝息らしき音もたててやった。
「ねぇ」
無視。
「本当は眠れないんでしょ?」
あんたが寝かせてくれないんだろうに。
「あ、今、この女気持ち悪いとか思った?」
「なんなんだよ、いい加減」
「思った?」
私は投げやりに、
「思った」
と、答え、背を向ける。
すると彼女は黙った。
これでようやく眠れる。
腰が痛くなる椅子の上で、無理やりに体を横にし、目を瞑る。
「…」
彼女は黙ったままだった。
「…」
私の体はすぐに悲鳴をあげ、節々に痛みを走らせ始めた。
眠れ。眠ってしまえ。
そう思ったところで、寝返りを繰り返すだけで、脳を覚醒させるだけだった。
顔に吹き付ける冷風が頬をなぞり、鼓膜をぼそぼそと震わせる。
眠れ。
顔を照らす照明は、私のまぶたの裏を赤く染め、暗闇から遠ざける。
眠るんだ。
体に張り付く毛布が気持ち悪い、ガタゴトと椅子の下からは振動と騒音が伝わり、さっきから彼女はただ黙っている。
そろそろ質問が来る頃だろうに、一向にその気配が無い。
おかしい。
だってそうだろ。さっきまであんなにも人を執拗に起こしていた彼女が喋らなくなった。
眠れない。
「なぁ」
「なに?」
「何で黙ってるんだよ」
「何でって?」
「さっきまでずっと喋りかけて来ただろ」
私は腕時計を確認し、彼女が黙っていた時間を知る。
「ほら」
私は彼女に時間の経過を見せつけた。
「だから?」
彼女は私に怪訝な顔を向けた。
「五分も経ってるじゃないか」
「私が質問を止めてから五分経っただけじゃない」
「さっきは二分で質問してきただろ」
「そうだったかしら?」
そらとぼけた顔が癇に障る。
「どうして急に黙ったんだ?」
「黙ってなんかいないわよ」
「黙ってただろ、五分間」
彼女はからからと笑った。
「そんなの黙ったと言わないわ」
「無言になるという意味が“黙る”だ。日本語も知らないのか」
「それくらい、知ってるわよ」
「だったら分るだろ。黙ってただろ、五分間」
「黙ってたわね」
「何故、五分も黙った?」
「あなた変よ」
色白で、真っ白い衣装を身に纏った、奇妙奇天烈な女にとってすれば、私は変らしい。彼女はしげしげと人の顔を見てから、
「私が二分黙っていようが、五分黙っていようが関係ないじゃない」
「関係あるだろ。五分は長すぎる」
「沈黙と時間と、どう関係があるの?」
馬鹿げた質問だ。
「今、この場合においては関係あるだろ」
「どうして?」
「当たり前だろ。あんた、さっきまでずっと質問してきてただろ、何時間も何時間も」
この部分においては彼女も同意した。
「その連続性が途絶えたことに必然性がないって言ってるんだ」
「有理数と有理数の連続は世の中ありえないのよ。一見、有理数の連続に見えるけれど、それらを結びつけている物は、実は無理数」
なんだそれ。
私は女の言葉を租借し、言葉を吟味してから、口にした。
「つまり、沈黙による時間をも会話と連続している。そう考えろって事か?」
彼女はよろしく指導してやろうという雰囲気を存分に漂わせ、
「少し違うわね」
と言って、咳払いを一つした。
「いいこと? 沈黙に時間という概念は都合せず、会話の連続性は、その会話の成立にのみ議論されるものなのよ」
「会話の断絶は存在しないって事か?」
「勿論、感覚的断絶は存在するわ。黙ればそこで会話は終わっているのだから。ただ、それを、五分黙っただとか、二分黙っていただとか、会話の断絶を時間軸から考えようとするのはロジックじゃないわね」
「あんたのそれは非論理的思考だよ。時間の連続から成り立つ世界で、時間から逸脱した連続性はありえないだろ」
「時間それ自体に連続性を見出しているあなたのほうが、よほど必然性のない非論理的思考形態と思うわよ」
「なんでだよ」
頭の固い女は嫌いだ。
「なら、あなたに質問するけれど。時間を遡るとしましょうか」
「何言ってるんだ」
「黙って聞きなさい」
私の口の前に、彼女の細い人差し指が当てられた。
「時間を遡るとしましょう。つい数時間前でもいいわ。数年前でも構わない。さて、あなたの周りの事物は、果たして過去に存在した事物に変容するかしら?」
彼女の手は引っ込み、私の回答を待った。
「するだろ、普通」
「普通って何よ?」
「普通は普通だ。時間が経てば形ある物は朽ち果てていくだろ。それを遡るという事は、例えば、未来に行くと鉄パイプがさび付き、そう変容したように、時間を逆行するのだから、新品に変容する」
女はわざとらしく溜め息をついた。
「なんだよ、その溜め息は」
「いいわ。だったら質問を変えてあげるから」
そりゃどうも。
「今、あなたが家に帰ったら、時間は出かける前に戻る?」
「戻るわけ無いだろ」
「そうね。当たり前よね。位置座標を戻したところで、時間は戻らないものね」
ふふっと彼女は笑った。
「なんだよ」
「だったら、何故、時間が過去に遡ったら、あなたは出かける前の状態に戻ると思えるのかしら? 言い換えるなら、位置座標を戻しているのに、なぁんで時間は戻らないのかしら?」
気がつけば、私が黙っていた。
「ほら」
と、言って、彼女は私の腕を持ち上げ、まざまざと、
「あなた、今、何分沈黙していたかしら?」
「五分」
「ね」
私に、私の腕時計を見せつけた。
「あなたの頭上を流れた五分は、会話を断絶するものではなく、むしろ連続であったはずよ。沈黙の時間が会話の断絶という考え方は、利己的な主観に過ぎないのよ」
「それは議論のすり替えだ」
私がそう言うと、彼女は再び黙った。
「…」
彼女は沈黙を続けた。
私はただ、待つ事にした。どうせまた何か言われるに決まっているからな。
「…」
そうして一〇分経っただろうか。女の顔をじっと見ながら待っていると、
「どうかした?」
期待はずれな事を言った。
「別に」
我ながら、呆れる。
「何故私が、会話を突然止めたか気になってるんじゃないの?」
「わざとだったのか」
「いいえ」
「だったらどうして」
「それは、あなたが回答を突然止めたからよ」
真面目な顔して何を言ってる。
「逆説的だな。それでいて真実には程遠い。質問が無ければ、そもそも回答は得られないだろうに」
「さぁて、ね。あなたが答えてくれなければ私は質問出来ない。あなたの回答が私に疑問を生み、育てる。回答を失うという事は存在を失うという事。まぁ、現存する物にこそ意味があり、現実を見出し、存在するとするならば、の話だけれど。つまり、あなたの意思によって私は質問をし続けたり、あるいは止めたりも出来る。そんな事もわからないの?」
私は投げやりに寝返りを打つ。
「だったら、あんたは存在しない、とする回答をしたらどうなる。回答こそがその存在を否定している。あんたはそこに存在できるのか」
「存在しないが存在する」
「欺瞞だな」
「あら、あなたの月の知識だって、欺瞞そのものでしょ? 人の事言えないわ」
「何言ってるんだ。あれは真実だ。計測結果が出てるからな」
私は椅子の脇に置いてある、バッグを手繰り寄せる。
「それは何?」
女は私の手元を覗き込んできた。
「本。知らないのか」
バッグから取り出した本に彼女は興味を示した。
「本?」
「紙媒体に字が刻印されていて、文字や数値、記号の類が記載されている。いわば簡易情報端末だ。珍しいか?」
彼女は首を大きく縦に振った。
「読んだこと無いのか? はじめてみるのか?」
再び彼女は首を縦に振った。やれやれ。
「だから、月の知識が欺瞞だ、何て言えるんだよ。人が直接月に行かずとも、これを読めば月がどんな所で、どんな物か理解出来る」
私は彼女に本を差し出した。
「読まないのか?」
「読んだところで、どうせ理解出来ないわよ」
「読んで見なければ分らないだろ」
「わかるわよ」
「どうして」
彼女は小首を傾げた。
「当然じゃない」
「だから、どうしてさ」
「記号で伝達されたイメージなんて、自分の内々のイメージより外からは絶対に訪れないからよ。私は月へ行った事がない。だからよ」
「そうかい」
私は、おもむろに席を立った。
「どうかした?」
「ちょっとな」
「どこか行くの?」
「トイレだよ」
私はよたよたと疲れている体を前に進める。
トイレのドアを開け、一人がやっと入れるほどの狭い個室で用を足す。
なんてことは無いのだが、トイレがまるで、大口を開けた人の顔に見え始めた。
なんだか申し訳ない気持ちとともに、こいつはもしかしたら変体なのかもしれないとも思った。何べんも何べんも飲んだり食べたりさ。
トイレから出ると、購買の中年女性がこちらをちらちらと見ていた。
周りに気付かれないよう、チャックを確認した。しっかりと上まで上がっている。
「あのぉ…」
「はい?」
「失礼ですが、あなた、外国の方ですよね?」
中年の女性は恐る恐る私に小声で話しかけた。
「そうですけど」
「中国人?」
「いえ、日本人です。それが何か?」
女性はあたりをちらちらと伺いながら、招き猫のような手つきで私に耳を貸すよう促した。
「掏られますよ」
「スられる? 誰に」
「彼女ですよ」
そう言って女性は私の席がある方向を一瞥した。
「隣の席の女の人が、何か?」
「あなた、眠れていないのではないですか?」
中年の女性の言う事は正しかった。
「まぁ、今の今まで一睡も出来ていませんが」
やっぱり。と、女性は大げさに驚いた。
「何度も話しかけられませんでしたか?」
「えぇ。その度に起こされていますよ」
やっぱり。と、再び大げさに驚いた。
中年の女性は、声を一層ひそめて、私に耳打ちをした。
「掏りの常套手段ですよ。相手が完全に眠っている事を確認するために、何度も声を掛けるんです。そして、本当に眠った事が確認出来たなら…」
スッと、彼女は自分の腕を懐に収め、
「掏られますよ」
自分の席に戻ると、女は先ほどの本を手にとっていた。
「面白いか?」
「つまらないわ」
そう言って彼女は私に本を返し、
「何故つまらなかったか、私の感想を聞きたい?」
と、随分と尊大な態度を取った。
「是非に」
彼女は咳払いを一つしてから、
「まず記号の羅列が綺麗過ぎるわね。妙に整頓されていて、違和感が無いのよ。違和感無きモノに存在感は無い。だってそうでしょ? それが変だ、おかしいって感じるからこそ、人は始めてそれの存在に注視したり傾注したりするわけなんだから」
「なるほど。疑問の話の続きか」
私は椅子の背を倒し、楽な姿勢をとる。
「つまり、あんたは疑問の発生を阻害する自然は軽蔑すべき事って言いたいのか?」
「そうね。そうなるわね」
「自然を自然とすること自体、不自然極まりないと感じた事は?」
「直感的に感じる自然は、いかなる論理的思考をもってしても、それは自然であるといわざるを得ないわよ」
「そうかい」
「そうよ」
私に調度良い疲労感と眠気が訪れた。
私があくびをすると、
「眠いの?」
と、わざとらしく、彼女は問い掛けてきた。
「あぁ」
「そう」
彼女は本当に掏りなのだろうか。
「…」
薄目から見る彼女の横顔は、少なくとも、世の中に満足している顔ではなかった。
「ねぇ」
だからと言って、掏りである理由も無いわけだが…。
「…なんだ」
女は相変わらず、私が眠りに着こうとすると、それを確認するかのように声を掛けてきた。
「マッハ三〇で飛ぶ乗り物で月へ行くって言ったら笑う?」
思えば、起こされてからされる質問は決まって月に関する質問だけだ。
「なんだそれ?」
わざとなのか、それとも本当に月に興味があるのか。
「笑う?」
「今、笑ってないだろ」
彼女はこくりと一度頷いてから、
「私はマッハ三〇で飛ぶ乗り物で月へ行く」
そう言い直した。
「そうかい。だったら頑張ってくれ」
私は目を瞑り、今一度意識を飛ばす儀式を始める。
体を横に寝かせ、深く息を吸い込む。
あれほどに眠かったのに、今は、相手の一挙一動を即応出来てしまうほど、感覚が研ぎ澄まされている。
「ねぇ」
「起きてるよ」
彼女は、いつものように「この質問をする為に声を掛けたんですよ」と、言わんばかりに、質問を切り出した。
「マッハ三〇で飛ぶ乗り物なんて馬鹿馬鹿しいと思ってるでしょ?」
私は呆れながらに答えた。
「今の自分を少しでもおかしいと感じた事はあるか?」
「何よそれ」
「いや。あんたの存在は止まるところを知らないと実感しただけだ」
彼女は、眉間にしわを寄せてみせた。
「それより、どう思うのよ」
「マッハ三〇の乗り物か?」
「マッハ三〇の乗り物よ」
「造ってどうする?」
「月に行くのよ」
「それで?」
「それだけ」
「それだけ?」
私は女の顔をしばし見定め、あぁ、こいつは本気なんだと確信した。
掏りじゃない。そうに決まってる。
「馬鹿馬鹿しい。無意味だ、そんな事」
伸びをして、まぶたを閉じる。これ以上、この女を見ていると眼からおかしくなっていきそうだからな。
「どうして?」
「あそこには何も無い。観測によって、そう証明されたことくらい知ってるだろ? 人間が行く必要が無い場所に行ってどうする」
「革命家はいつも無意味とも思える途方も無い夢を語るものよ。意味なんてあとからいくらでもつけられるのだから」
私はまぶたを薄く開け、彼女を見据えた。
「あんた、革命家?」
「違うわよ」
彼女は少し胸を張ってから言った。
「宇宙飛行士」
「勝手に造語を作るな」
寝返りを打ち、彼女に背を向けた。
「そうでもしなければ適当なイメージを共有する事が出来ないじゃない」
私は溜め息を一つ吐いた。
「イメージを共有しているなんてありえない。そう思いこんでいるだけだ」
「それくらいわかっているわよ。ただ、そう思い込む材料は必要なのではなくて? でなければ会話が成立しない」
「会話を成立させる材料が記号の類だって事か?」
「意思の疎通を会話と定義するならば、それによって成立させられるモノが記号なのよ。材料はむしろ会話ね」
「記号は他我と自我の存在によって初めて生まれるものって事か?」
「そうよ。世界があなただけだったならば、“それ”は必要ないでしょ?」
そう言って彼女は私の本を指差した。
「それだけじゃないわ。眼も耳も、そもそも体さえも必要ないかもしれないわね。あなただけの世界だったならば」
「いや、それは違うな」
私は薄らぼんやりと見える天井を見詰めながらに答えた。
「例え世界が自分だけだったとしても、おそらく何かを残そうとし、そこに表現が生まれていただろう。だったらそれは何だと聞かれたら、いかなる形になるかは創造もつかないけど…」
この答えは確信ではない。曖昧で茫漠とした、何かつかみどころの無い巨大すぎるイメージ。
「それはおかしいわね。そもそも他人の存在自体を知りえないその人にとって、何かを残すという行為自体、思い浮かばないのではなくて?」
「何かを残すのは、作為があったり、誰かの為なのか? おそらく違う。死んだ人間の体は遺族の為に残すのか。違うだろ。死ねば体は無作為にそこに残る。時間と共に腐っていくとしてもだ」
私は本を手に取り、
「これだってそうさ。これは何の為に書かれたのか。著者は雄弁に“月へ行く方法論だ”と語るかもしれない。けれど、その本質には触れられないだろう。何故これを書き残したのか。そこにいかなる作為も存在しない、根源的な何かがあるはずなんだ」
彼女はしばし黙考した。
「やっぱりそんなのおかしいわよ。それこそ無意味よ」
「無意味?」
「だってそうでしょ? 無作為で誰の為でもない、何かを残す行為なんて意味が無いじゃない。ありえないわよ、そんな事」
私の肯定も否定も意に介さず、彼女は喋り続けた。
「月に行く事は結果、無意味だとしても、その経過、目的意識に意味を見出しているでしょ? 出してるのよ。でも、あなたの言う表現は無作為であり、無目的。それこそ無。ありえないわよ」
「根源的何かがあるって言ったろ?」
「あなた自身その何かがわかっていないのでしょ?」
私は頷いた。
「だったらそれは知覚されていないのだから存在しない事と同義よ」
「そうだろうか」
「そうよ。例えば」
彼女は腕を組み、天井を見上げてから、
「酸素はいつからこの世界に存在したのか」
「四〇億年以上前の大気には酸素がないからそれ以降だろ」
「そういう話じゃないわよ。無駄に博学なのね、あなた」
「どうも」
「いいわ。そうね…。言い換えるなら、この世界の存在はあなたの存在によって成立している。つまり、あなたが生まれた瞬間から、この世界が広がり、あなたが死んだ瞬間、世界は終局を迎える。意味分る?」
「あんたが頭のいかれた女だって事位にはな」
「私はいつだって真面目よ」
「そんなの変だろ。たった一人の人間の生死が世界を誕生させたり、死滅させたりなんて」
「どうして?」
「言うまでも無いが、世界は人間一人の人生以上の歴史を歩んできている。その事実がすでにあんたの言う人間本位の思い込み理論を破綻させてる」
彼女はまたしばらく黙考をし、
「目に見えるからそれは存在するのか、存在するからそれは目に見えるのか。あなたはどちらだと思う?」
「どちらだとも思わないさ。前提条件からして間違ってる。それこそ、酸素の類は目に見えずともそれは存在している。あんたの好きな宇宙だってそうだろ。目に見えない真空ってのも、確かにそこは真空として有るんだよ」
「それはあなたが可視光以外の何らかの形でそれらの正体を知覚したからそう言えるのでしょ? もし、世界にそのような計測器が無かったのなら、果たして私達は、世界に宇宙があると思えたかしら? 大気という存在に気づけたかしら? もしかすると、そんなもの無かったのかもしれないわよ」
「その“無い”はあくまで虚偽的な意味に過ぎず、因果律を崩壊させてる。事実、世界には空気はあったんだ。今日になってふと現れたわけじゃない。それはもともとそこにあった」
「面白いこと言うのね」
「あんたほどじゃないがな…」
気がつけば、太陽が沈み始めていた。
日本は今、深夜頃だ。旅の疲れも相まって、眠気が徐々に訪れていた。
「ねぇ」
その声にどきりとした。眠っていた。
「なに」
「月ってどんなところかな?」
「またそれか」
私は寝ていなかったと言わんばかりに、今まで以上にはっきりと答えた。
「半径一七三八キロメートル。質量は地球の約八一分の一。重力は地球の六分の一。見渡す限り石ばかりで草一本どころか空気も無い。自転しつつ約一ヶ月で地球を一周。自転と公転の周期がほぼ等しいから、常に反面だけを地球に向けている」
「ふぅん」
鞄は荒らされた形跡は無く、ポケットに手を突っ込まれた形跡もない。大丈夫だ。
「それが未だ人の手が加えられていない、オリジナルの物体のスペックなのね」
「何言ってるんだよ。世界にオリジナルなんてものはそもそも存在しないだろ」
「何を言ってるのよ。月はオリジナルでしょ」
「月は地球の破片で構成されているし、そもそも、この宇宙自体が他宇宙の干渉を受けて構成された模造品だ。完全なオリジナルは証明不可能な人知を超えた位置にある」
「人知を超えたものは、つまり知覚出来ないのだか、そんな物は存在しないわ」
「あんたの理論だとな」
「そうよ。それに、少なくともあなたと私とでは似ても似付かない特性が存在するじゃない」
「そんなものどこにも無いだろ」
彼女のきょとん顔を確認した私は、説明を付け加えることにした。
「個性なんてものがあるだろ」
「あなたは個性的過ぎるわね」
「そうそれだ。その個性ってのは、みんな誰もが自分独りだけのものと思ってる。いや、そう願ってるものだ。他の誰でもない、自分ばっかりの物ってさ。けど、そんな物、個性なんてものは所詮、生活の癖程度でしかなく、それを個性というのならば別だが、少なくとも、本質的な個を見出すに足る性質などは持ち合わせていない。みんなそうだ。どこかで聞いた、どこかで見たことのあるようなくだらない人生の真似事を繰り返すばっかりだ。この世界はイミテーションでしかない」
黙りこくった彼女に、私はこんな質問をしてみた。
「月へどうやって行くつもりなんだ?」
「さっきも言ったじゃない。マッハ三〇を超える乗り物を作るのよ」
「ほら、な。それだってどこかの物理学者が考えた模倣思考だろ。結局のところ、何かを基盤にしなければ何も生まれないんだよ」
「他にも方法はいくらでもあるのよ」
「例えば?」
「例えば、私は実は月のお姫様だったとか。そうすれば使者が月へ連れて行ってくれるわ」
苦笑い。
「よく知ってるな。あんた、ドイツ人だろ?」
「月の姫よ」
「そうかい。なら、どうして地球に住んでる?」
「月の土地が高くて買えなかった。貧乏だから」
「姫なのになぁ」
私は大きく伸びをしてから、
「なんで月に行きたいんだ?」
「行きたいから」
「やっぱりそれだけなのか」
「十分よ」
私は言うかどうか躊躇したが、
「行くだけなら方法はある」
と、彼女に言った。
「本当?」
「嘘を言う場面では無いだろ」
彼女は声をひそめて私に問い掛けた。
「どうやって?」
「つまりだ。秒速一一キロメートルを超えればいいんだろ?」
私は彼女が頷くのを確認してから、
「いいか? 筒の中に火薬を敷き詰め、爆発させる。筒の中で逃げ場を失ったエネルギーを推進力にして激発された物体は、その爆発エネルギーによって直進運動を開始し、重力に引かれながらも、その合成慣性力によって月軌道を生成する。それに乗ればいい」
「本当に出来るの?」
「出来るさ。それって、ただの巨大な大砲の事だからな」
「あなた天才ね」
希望に満ちた彼女を私は打ち砕かざるを得ない。
「ただ、“宇宙飛行士”は死ぬがね」
見る見るうちに彼女の顔から希望が削げ落ちていった。
「どうして?」
「おそらく、発射の勢いで中の人間はぺしゃんこになる。それに、片道切符の乗り物だ。行ったはいいが、帰る方法が無い。本当に月に行くだけの乗り物。そんな物に、あんた、乗りたいか?」
「…」
彼女は、黙った。
いくら待っても回答が返ってこなかった。
彼女の回答を待っているうちに、硬い椅子も、気持ち悪い肌触りの毛布も、顔に当たる冷風も、眩しいほどの照明も、耳を劈く轟音も、気にならなくなっていた。
私の中の睡魔が目覚めたのだ。
「ねぇ」
女は、執拗に私を起こした。
「いい加減にしてくれ!」
極度の疲労と睡眠欲が私に怒りを覚えさせた。
「もういい加減寝かせてくれ! 女、あんたは一体何がしたい? 名前も知らない、素性も知らない、ただ隣に座っただけの男に、どうしてこんなにまで話しかける? あんたがスリでもなんでもいい! 盗むんなら黙って盗めよ! 違うのなら黙って座ってればいいだろうに!」
「そんなことより」
「そんなことよりじゃねェよ!」
「私をその大砲に乗せてくれない?」
つくづく頭のいかれた女だ。
「なんで乗りたい」
「月に行きたいから」
「馬鹿が。死ぬって言ったろ。死んじまったら意味ねェだろうが」
「意味あるわよ」
「意味なんてあるわけねェだろ」
「あるわよ」
「あんたの言ってる事はつくづく、いい加減なんだよ。どれもこれも、鼻から嘘っぱちなんだ。本当は月へ行く事が目的でもなんでもないんだろ。今は勢いで言ってるだけでな、冷静になれば、いざとなったら、死ぬ覚悟で月へなんて行く人間、どこにもいやしないんだよ。ただあんたは、年を食って空を見上げながら、私は昔あそこに行った事があるという事実に、自惚れていたいだけなんだろ。違うか? 違わないさ。人間ってのはそうやって生きていくもんだからな」
「あなたの価値観を押し付けないでよ」
「押し付けじゃない。純然たる真実だ」
「それこそ嘘よ。嘘、嘘、嘘。嘘ばっかり。嘘をもっともらしく語って、あたかもそれらしい風貌にして何の意味があるのよ。くだらないわよ、そんなもの」
「だったら、あんたがそれを嘘だと証明して見せろ」
「証明して見せるわよ」
「…いい加減なこと言うな」
私は粗雑に毛布を被りなおし、眠りに付いた。
次に眼を覚ました時には、時既に遅く、私は何者かに掏られていた。
そして、掏られた物が財布ではなく、一冊の本であった事が、私をより不快にさせたのだった。
あとがき
ふと思ったのですが。牛乳って一体、何味なんでしょうか。牛乳味でしょうか。すると、困ります。せめて辛いとか苦いとかで分類できるレベルに落とし込む事は出来ないものでしょうか。甘いですかね。酸っぱくもないので。酸っぱかったら、それは牛乳が進化を遂げようとしている瞬間です。速やかに、土に還して上げましょう。
何故、こんな話をしているかというと。この物語を執筆中に、ある喫茶店でコーヒーを飲みながら友人と談笑をしていました。楽しかったです。そこに、女性が来店。別になんて事はありません。ただの人です。全然、面白くも無い。しばらくして、彼女は何を飲むのか決めたので、店員を呼び、注文をしました。まぁ、コーヒーを注文したわけです。“甘い系のコーヒー”とやらを注文していました。出てきたのはカフェラテでした。店員は、そのカフェラテの隣に、砂糖の小瓶を置き、一歩下がり、頭をペコリ。そして、テーブルから去ろうとした時、「すいません」と、その女性からなにやら不満のこもった声で呼び止められたのです。一体、何があったのだろう。店員含め、僕も、友人も、息を呑む。すると、女性はこう言ったのです。「砂糖いれたら、甘くなりますか?」
その発想はなかったわ。
彼女にとって、きっと、その白色の結晶は炭素十二と水素二二とオゾン一一の分子には見えなかったのだと思います。残念な事です。彼女にとって、きっとその結晶は希酸や酵素では加水分解されること無く、グルコースもフルクトースにもならない、不思議な白色の結晶でしかなかった。そうに違いありません。
しかしながら。しかしながらです。彼女の質問は、なんと哲学的な事か。と、最近思ったわけなのです。コーヒーという苦い飲み物に、砂糖をいれると、本当にそれは甘くなっているのだろうか? と、彼女は僕に、そして世界に問い掛けていたに違いありません。甘い系のコーヒーを注文したのに、出てきたのは甘みを付加したカフェラテで、コーヒーは甘くなんてなっていない。甘いのはあくまで砂糖。私に言わせれば、そもそも、最初から、味覚なんてものは無いのよ。彼女はきっと、そう、言いたかったのだと僕はそこはかとなく思うのです。今にして思えば、その不思議な女性との出会いが、この物語のヒロイン像に、ほんの少し、気持ち程度、どちらかというと、影響しているのかもしれないと、言えなくも無いです。
置いといて。
この小説は自身の仕上げた作品で二番目に当たります。冗談半分に始めた物書きが、こんなにも自分の人生に多大な影響を与えるとは、一体誰が予想できた事でしょう。少なくとも、僕自身、これは予想外であり、生活を苦しめる原因の一端を担っているといっても過言ではありません。そうそう。そうなんです。毎日、何故か、小説に追われる毎日なんです。なんだか、人間が使う為に作られた時間が、いつの間にか、時間に使われる人間になっているような、そんな縮図を垣間見ている気がします。
しかし、苦しいとか、辛いとか言いながら、そんな小説に追われている日々が結局のところは楽しいのでしょうね。みなさんにもあると思います。そういった、夢中になれるものって奴です。それがいつか、皆さんを一流と呼べる人間にするに違いありません。
最後に。この小説を読んでくださった方々全てに、僕は感謝の念を抱きながら、生きていきたいと思います。お粗末さまでした。
かわだりょうご